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山形県西村山郡河北町大字溝延字西浦82
       まきの農園  園主 牧野 聡
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お米の歴史
米の伝来
 私が学校で歴史を習った事を思い出すと、稲作が行われたのは、確か弥生時代(今から1400年前)のはず、中国からやってきたんですね。そのころは今のような白米の米ではなく、赤米(あかまい)等の先祖が来たようです。もともとお米は東南アジアの熱帯の国が原産で、いろいろな人の手に渡り栽培され、その中から日本のような温帯の気候に合う系統だけが生き残り、現在に至ったようです。

石高(石高)
 昔、お侍さんが給料としてもらっていたのはすべて米でした。そのお米の重量の単位というのが、よく時代劇でなどで出てくる石高(こくだか)ですね。ちなみに1石(こく)=10斗(と)=100升(しょう)=1,000合(ごう)=150kgです。そしてお侍さんたちは、給料としてもらったお米をお店で換金し、味噌や塩などの生活物資を調達しておりました。
一石一城の主(いっこくいちじょうのあるじ)なんて言葉がありますが、10aの田んぼ(1000u:一石のお米がとれる面積)と自分の家を持つのがその当時の男のステイタスだったのかもしれませんね

100万石の大名
 また、100万石の大名という言葉も聞きますよね?今で言うと15万トンもの米を持っていた大名になります。現在の山形県で生産する量は、約3割減反されて50万トンです。「ナンダたいしたことないじゃない!」と思ってしまいます。しかし現在のお米の単位面積あたりの生産量はその当時の4倍とも言われているので、換算すると100万石の大名の領地は山形県の田んぼと同じ面積と言えますね。

お米は現金の代わり
主食だったお米はお金の代わりだったのです。ましてや日本国中の人々が十分に食べられるほどの米は生産されていませんでしたから、昔から単位面積あたりたくさん安定して収穫することが重要だったのです。そのため各大名たちは全国各地にかんがい用の用水路やため池などを作り領地から年貢を回収できるようにしたのです。地元で○○川という名前でなく、××堰(せき)なんて呼ばれる川は無いでしょうか?それは昔々田んぼに水を引くために作られた川なのです。山形の有名な堰は「黒井堰」!米沢藩士黒井半四郎が藩の財政を立て直そうと大灌漑事業を行いました。今でもこの堰は使われています。

山形のお米の歴史
 山形のお米の歴史は「亀の尾」という品種の発見で大きく変わりました。お米というのは日本に伝来し九州地方からどんどん北上してきました。しかし九州地方と東北では気候の差があり、ちょっとした冷害でも収穫がゼロだったらしいのです。1897年尾花沢に住む阿部亀治さん(当事の年齢で私と同じくらい)が、冷害の年にもかかわらず穂をたれ、十分な米粒をつけた稲を発見したのでした。その後亀次さんは種籾を選抜・育成して冷害に強い稲「亀の尾」を作り出しました。その米が東北のお米の原点といわれています。良質米の血筋は「東の亀の尾・西の朝日」と呼ばれ、「コシヒカリ」も「はえぬき」も「ひとめぼれ」もみんな亀の尾の子孫なんです。

白い米
 昔は冷害や水不足・肥料不足のため、十分に日本全国の人がお米を食べることが出来ませんでした。そのような背景は、農業技術が発達した近代にまで影響してきます。いわゆる1970年台の米過剰の時代までですね。お米が作られるようになってからつい最近までたくさんの量のお米を作る事だけが、最も重要なことと考えられたきたのです。実際、私たちの爺さんの世代までは十分に白い米を食べることができなかったので、最近健康ブームで流行りの雑穀ご飯などは「貧乏人の食べ物だ!俺は食いたくない!」なんて言う人もいるぐらいです。

近代のお米の歴史は→コシヒカリ物語
山形の幻のお米
→さわのはな物語
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