| コシヒカリ物語 |
はじめに
なんで山形の農家がコシヒカリの話をするの?山形といえば「はえぬき」でしょうなんて思っていません?コシヒカリという品種は今の稲作農家にとって切っても切れない関係があるのです。近代のお米の歴史を知るということはコシヒカリを知ることと同じなのです。みなさん興味が沸いてきました? |
|
コシヒカリの誕生の背景
歴史のところで話しましたが(お米の歴史)、お米というのは過去いかにたくさん・安定して作るかが大きな課題だったので、味などは二の次、三の次でした。当然ながらコシヒカリも「たくさん作った者の勝ち!」といった風習の真っ只中に誕生したのです。そう、あれは忘れもしない太平洋戦争が激しさを増した時なのでありました。・・・・・・・・(これは冗談 私はまだ生まれていない)
「たくさん作った者の勝ち!」と言う表現はおかしいです。その当時お米は日本国中の人々が十分に食べれるほどのお米の量は無かったのです。ですから気候に適して、病気にならない、たくさん採れる米をその当時の研究者は考えていたのです。それに、戦時中は食料も輸入する事は出来ないわけで、農家は米をジャンジャン作らなくてはならなかったのでした。 |
|
コシヒカリの誕生
コシヒカリが生まれたのは太平洋戦争が終局を迎える1年前、1944年に新潟の研究者によって、新潟県の奨励品種だった「農林1号」と、いもち病に強いと言われた新品種「農林22号」を掛け合わせて誕生しました。農林1号とは、多肥多収(*1)で米質がいいため、その当時の新潟県の主力品種だったのです。しかし、この農林1号はイモチ病(*2)に弱く、それを防止する農薬の技術がまだ進んでなかったため、どうしても品種改良によって病気に強い次期「農林1号」が必要だったのです。
こういった理由でこの交配が行われたのですが、この交配によって生まれたのは出来の悪い子供達ばかりで、危うく廃棄処分になりそうな事もたびたびだったのです。しかしながら、その孫やひ孫の代になってようやく優秀な子供が生まれたのでした。とはいっても、当初の目的は病気に強い「農林1号」なわけで、イモチに弱く、倒伏しやすい今のコシヒカリは、ひ孫の中では目的からはずれたできそこないだったのです。
(*1)多肥多収・・肥料をたくさん与えると多収穫ができる品種、ちなみにコシヒカリは多肥多収の品種ではない
(*2)イネの代表的な病気 |
|
農家にとってのコシヒカリとは
農家にとってコシヒカリは、栽培するのに面倒な品種なのです。あなたの町に田はあるでしょう。秋になり、刈り取りを待つ稲たちが並んでいる中で、ある1部の田だけの稲が倒れているのを見た事はないでしょうか?それは99.999%コシヒカリです。コシヒカリは稲自体の背丈が高いため、稲穂が登熟すると、それ自身の重みで自分自身を支えきれなくなるのです。幸いコシヒカリは穂発芽性(*)が悪く、また倒れても茎が折れないので、倒れたままでもすべてダメにはなりませんが、刈り取りが大変なのです。多収をねらって肥料をたくさん入れると「イモチになるか倒伏するかどっちがいい?」という状態。そんな訳でコシヒカリは、刈り取りを手作業で行われる山間部などの小規模農家などに奨められ、栽培され始めたのです。
(*)穂発芽性・・・種は水分と温度が一定の条件を満たすと発芽します。倒れた稲が雨などで、濡れた地面と接することにより稲の状態で発芽してしまうこと。麦などがよく梅雨時に刈り取りされるため被害が起こる。当然発芽したら穀物として保存できない(もやしにでもするか?!) |
|
コシヒカリの完成
コシヒカリが生まれた当初は出来の悪い欠陥品種というのは前述のとおりです。しかしなぜこの品種がこんなにも栽培されてしまったのか? これはいろいろな偶然からなのです。実はコシヒカリは、その後新潟県では見込みがないと判断され、開発品種の少なかった福井県に譲渡されたのです。
ちなみに開発される途中のお米は、人の口には入リませんでした。食べられるほどの量が無かったのと、米の質は稲穂の外見と、玄米の外見でしか判断されなかったためです。
しかし、いい出来のお米でも銘柄が変われば味も変わります。味にしか軍配の上がらないコシヒカリがなぜ生き残ったのか、さらに疑問が沸きますよね。そこで偶然が生まれるのです。そこに居合わせたその事業所の担当者が、コシヒカリの稲穂を見てあまりに綺麗で、捨てるのがもったいないと思ったことと。その時期、そこの研究所ではどんなものでもいいから、新しい品種を世に送り出さなくてはならない事情があった(用はノルマがあった)からなのです。前に述べた通りそんな厄介な品種も、その担当者は山間部などの小規模で行われる農家など(多肥多収とは正反対の地域)に栽培してもらえるのでは・・・・・。と言うような考えで世に送り出したようです。 |
|
コシヒカリのデビュー
世に送り出されたと言っても、新品種の種籾(たねもみ)というのは、お百姓さんが簡単に手に入れることは出来ません。まず昔は、今のように品種の向き不向き・栽培方法・流通ルートなどの情報を得ることが出来ませんでした。なので農家は安定して米を生産するには、県の奨励品種を、農業試験場の指導に従って栽培するしか出来なかったのです。
しかし世に送り出されたものの、これは欠陥品種のコシヒカリにとって大きな壁になりました(当然この頃もコシヒカリの味は知られていません)。どこの県でも奨励品種に選ばれなければ、何年か後には消えて無くなる運命だからです。そこでなぜかまた偶然が起こってしまうのです。その当時新潟県では、国立と県立の2つの農業試験場が存在しました。この2つの農業試験場は学閥争いで対立し、国立で作った品種は県の奨励品種に採用したくない、という状況だったのです。しかし県の農業試験場でも対抗できる品種が完成していない、そこでたまたま福井から来たコシヒカリを、新品種が完成するまでの代役として、むりやり奨励品種に採用してしまったのでした。そしてコシヒカリは山間地向きの品種として、皆さんもご存知の魚沼地方に送られたわけです。(1955年の話)
こうして山間部で栽培されることとなったコシヒカリは、新潟県で山間地向きの品種が無かったということもあり、その栽培面積はまたたく間に広がっていったのでした。しかし山間地向きといえども欠陥品種、はじめはイモチと倒伏に散々悩まされたのです。でもその味によってコシヒカリが消えることはありませんでした。さらに追い討ちをかけたのが、農業機械の発達でした。倒伏したイネはそれまで手作業で刈り取るしかありませんでしたが、コシヒカリの栽培面積が広がると同時に農業機械進化を遂げ、倒伏した稲を刈り取る技術が完成したのでした。そして1970年代の米過剰の時代に入り、自主流通米の制度が採用されると、その実力が際立つことになるのです。その後は皆さんのご存知の通りです。 |
|
コシヒカリ一族の繁栄
お米の品種の寿命は一般に10年と言われています。つい最近までコシヒカリと競い合っていた「ササニシキ」は、ひとめぼれにとって代わられ、今はあまり見なくなってしまいましたね。これに比べササニシキより早く生まれたコシヒカリは、誕生から50年経っても今だ不動の地位に立っています。これは大変すごいことでありますが、実はコシヒカリもササニシキも身内同士、コシヒカリのできのいいほうの兄弟の子供なのです。いわゆるササニシキから見たらコシヒカリはおじさんなわけです。さらに今現在、日本で栽培されているお米は、ほとんどがコシヒカリの親戚たちなのです。これらを表にまとめました(下図) |
作付面積割合表
| 品種名 |
コシヒカリとの続柄 |
作付面積割合 |
| コシヒカリ |
本人 |
35.5% |
| ひとめぼれ |
子供 |
9.7% |
| ヒノヒカリ |
子供 |
9.0% |
| あきたこまち |
子供 |
8.5% |
| きらら397 |
ひ孫 |
4.8% |
| キヌヒカリ |
コシに放射線をあてた子供のひ孫 |
3.6% |
| はえぬき |
ひ孫(あきたこまちの子供) |
2.7% |
| ほしのゆめ |
ひ孫の子供(きらら397の子供) |
2.6% |
| 日本晴 |
他人 |
1.3% |
| つがるロマン |
ひ孫(あきたこまちの子供) |
1.3% |
2000年のデータです |
|
最後に
要するに、コシヒカリの血を引くお米を、ほとんどのみなさんが食べているのです。コシヒカリの歴史はお米の近代の歴史と同じということがご理解いただけたでしょう。次回は「はえぬきの歴史」でも作ろうかな |
|
→さわのはな物語
→お米の購入 |